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【アラベスク】  第15章 薄氷の鏡



第3節 狐と鶴 [13]




 傍らでうめき声が響いた。慌てて振り向く。ベッドの上で、霞流が右腕を伸ばしている。
「痛い」
 左手で抑えるのは後頭部。そして右手は、フラフラと宙を彷徨う。
「クスリ、くれ」
「霞流さん」
 声を掛ける美鶴になどは目もくれず、その瞳はただ一点を見つめるのみ。
「クスリを持ってこいよ。そこにあるんだろう? ちゃんと聞いていたんだぞ」
 美鶴はテーブルを振り返った。
「クスリ、持ってこい」
 再びベッドを振り返る。
 朦朧と、まるで周囲などは目に入らず、クスリの事しか頭にはない。
 愕然とした。
 違う。いつもの霞流さんじゃない。
「クスリを持ってこいと言ってるだろうっ!」
 大声に身を震わせ、慌てて注射器と紙袋を手に取る。だが振り返ってその姿を見た時、美鶴は全身が凍るのを感じた。
 ひどく酔ったような瞳。トロンと、少し溶けたような、濁ったようなガラス玉。
 細く涼やかな、爽やかだけどどこか暖かくて優しくて、流麗で品の良い瞳だったはずだ。本性を曝け出してからも、冷たくはあったけれども、透き通るような美しい瞳ではあったはずだ。だが今の霞流に、その面影は無い。
 何かに餓えた(けだもの)のように、何かに取り憑かれた怨霊のように、ただ真っ直ぐに注射器と紙袋を凝視する。
「持ってこいよ。頭が痛んだ」
 唸り声のような響き。
 違う、霞流さんじゃない。こんなの霞流さんじゃない。
 そんなに頭が痛いの? でもこれ、ただ頭が痛いだけ? 本当にそれだけ?
「持って来いっ!」
 どうしたの? 痛みでおかしくなっちゃったの? それともクスリが切れておかしくなってるの?
 クスリが切れる?
 己の言葉に息を呑む。
 ひょっとして霞流さん、クスリを常用しているの?
 薬物中毒?
 目の前で朦朧と、まるで幻覚を追い回すかのように右手がフラついている。深く陰影の落ちた顔に、表情は無い。
 爽やかな風を受けながら銀梅花を教えてくれた霞流が、小川のせせらぎを背に笑ってくれた霞流が、ガラガラと音を立てて崩れていく。
 嘘だ、嘘だ。こんなのは嘘だ。
 わかっていたはずだ。霞流は、自分が思っているような、甘い貴公子のような男ではない。それはわかっていたはずなのに、目の前の姿を認めたくないという衝動に駆られる。
 これは夢だ。
 頭に包帯を巻き、金糸は無残に乱れ、頬は青白く、瞳に生気は無い。
 まるで死人だ。死んだ人のようだ。
 霞流さんは、このまま病院へも行かずに治療も受けずに、ただクスリで痛みを誤魔化しながら死んでしまうの?
 視界の隅に携帯が転がる。

「万が一離ればなれにでもなったなら、これで連絡してください」

 そっと耳元で囁いてくれた。

「そのように初心(うぶ)な表情をされると、殿方が放っておいてはくれない」

 などと言ってからかってくれた。

「ズル休みはいけませんよ」

 五月の木漏れ陽を受けて、楽しそうに笑っていた。

 すべてが夢だったというのか。目の前の姿が現実で、あれもこれも幻だったのか。
 ゆるゆると、無意識に頭を振っていた。見苦しいとは思う。だが、どうしても認めたくないという未練が湧き上がる。

「慎二は優しい人間よ」

 琵琶湖の細波(さざなみ)を見つめながら、智論(ちさと)は呟いた。
 本当は優しい人間なんだ。こんな人間なんかじゃない。
 本当の霞流慎二はこんな人間ではないはずだ。もっと優しくて暖かい人間。
 薬物を使用しているから優しくないというわけじゃない。そんな事を言っているワケじゃなんだけど、これは違うんだ。こんなのは霞流さんじゃない。
 霞流さんは、このような飢えた獣のような人間ではないはずだ。私はそう信じている。もしも目の前の姿が本当の霞流さんなのだとしても、昔はそうではなかったはずだ。
 昔は、好きな人だっていた。
 そうだ、そうだったはずだ。
 逢ってみたいんだ。昔の、桐井(きりい)という女性を純粋に想っていた頃の霞流さんに、私も逢ってみたい。
 これは妄想。甘い幻想?
 それでもいい。せめて、せめてもうちょっとだけ私にチャンスをください。もっと積極的になるから、もっと覚悟を決めて立ち向かうから、だから、だからこのまま霞流さんがこの世から消えてしまうなんて結末にはしないで。
 霞流が身を乗り出した。毛布がベッドからズリ落ちる。構わず右腕を伸ばす。もう少しで紙袋に届く。美鶴は大きく息を吸い、紙袋と注射器を後ろへ放り投げた。
 ガシャンと、ガラスの割れる音がした。霞流の腕の動きが止まった。澱んだ瞳が美鶴のそれと重なる。
「やめてください」
 擦れる声を絞り出す。そうして携帯を拾い上げる。
「病院へ行きましょう。救急車を呼びます」
 霞流が素早く美鶴の手を握る。
「やめろ」
 低い声で命令しながら携帯を取り上げようとする。
「放してください」
「俺をムショに突っ込む気か? それが望みか?」
「そうじゃない。そうじゃないけど」
 両手で必死に抵抗する。だが、霞流の力はものすごい。
 出血し、体温が下がり、身体は弱っているはずだ。言葉だって弱々しかった。なのにこれだけの力が出せるというのはどういう事なのだろう。人間、我を忘れるとこのような力も出るということなのだろうか?
 薬物の力か?
「放してっ!」
 だが霞流は放さない。左手も伸ばし、髪の毛を乱しながら携帯を奪い取ろうとする。爪が食い込み、指に痛みが走る。
 このままでは取られてしまう。何とか、何とかしないと。
 虚ろにこちらを見つめる瞳。荒い息に濡れる唇。美鶴はその姿を凝視し、やがて意を決して左手を霞流の項へ添えた。そうしてそのまま引き寄せた。
 ふふっ そうくるか。
 霞流が、ニヤリと口元を緩めた時だった。
 ゴンッ!
 ……………
 え?
 瞠目する霞流。
 は? な、何だ? ゴン?
 じんわりと響く前頭葉の痛み。
 何だ? 今のは何だ? 何があった? なぜ頭が痛い? この痛み。この痛みは、今のは、ず……… 頭突き?







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